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唐代の女性(T)-02唐の気風・生活・食事


唐代の女性 (T)  目録

1.唐の音楽と歌舞


2.唐の歌妓(妓優)



02----------


3.唐時代の気風


4.生活実態


5.食事と料理

03----------


6.女性の服装と化粧


7.女性と結婚

04----------


8.女性に関する年中行事・趣味趣向


  /年中行事/運動・競技/屋外遊戯/酒と酒宴/屋内娯楽/喫茶と茶道/散楽と劇/牡丹の流行/異国趣味/無頼と刺青/遊侠と奢豪/虎と狐への信仰



9.女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。


人日の剪彩/蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)/闘百草(百草を闘わす遊び)/弓子団子/七夕の乞巧(針仕事の占い)/拜新月/蔵鈎(鈎隠し)/動物の飼育



10.唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。


元宵節観燈(燈龍の見物)/春薪踏青(ハイキング)/芝居見物/ポロ見物




唐代の気風



  唐代の女性たちの中で、これまで人々から忘れ去られることのなかった人物は一人だけだろう。それこそ中国史上「前に古人を見ず、後に来者を見ず」(唐の詩人「陳子昂」の句)と称された女性皇帝武則天(則天武后)である。たとえあなたが彼女を讃美しようと憎悪しようと、彼女を歴史から抹殺することはできない。まず彼女のことから話を始めようと思う。
 古代中国において、后妃(皇后と妃娘)が政治を勤かすのはもともと稀なことではなかった。彼女たちは幼主を抱いて簾の奥で政権を握ったり、あるいは皇帝を利用して寝物語に政局を左右したりした。唐代以前における歴史上の際立った女性を列挙すると以下の通りである。
・秦の宣太后(昭襄王の母親)
・前漢の呂后(前漢高祖劉邦の皇后呂稚、中国史上初めての皇后)
・  竇太后(前漢の文帝の皇后。景帝の母。)
・  王后 (前漢の景帝の皇后で、武帝の生母。槐里の人)
・後漢の馬后 (後漢の第2代皇帝明帝の皇后。)
・  ケ后 (後漢の皇后。ケ綏(和熹ケ皇后)後漢の和帝の皇后。ケ禹の孫娘。)
など六人の皇后があげられる。
・西晋の?后(?皇后, ?文君, 皇后,後成皇太后,諡號明穆皇后, 322年−331年, 生晉成帝司馬衍)
・  ?后(?皇后も慎ましい性格の父、??と同じくせいかくであった。)
・北朝の馮后(北魏 文成帝皇后 馮氏(442〜490) 秦州、雍州刺史馮郎の娘で、母は王氏。長楽信都(現在の河北省)の出身。)
・  胡后(北朝北魏の第8代皇帝の暗殺後、胡太后ははじめ、孝明帝の娘を男子と偽って帝位に即け、露見すると代わって孝明帝の従甥に当たる元サを擁立したが、爾朱栄の反発を招き、河陰の変で殺害された。)
・  婁后(武明皇后婁氏(501〜562) 名は昭君。高歓の婁夫人。)
・隋朝の独孤后(隋の文帝楊堅の皇后。一夫一婦主義を要求した中国史上唯一の皇后)
などがいた。唐代以後には、
・北宋の劉后(章献明粛皇后 - 北宋の真宗の皇后。)
・  曹后(北宋の第4代皇帝仁宗の皇后。慈悲深く質実な人柄で、禁苑に畑を作って種々の穀物を育て、また養蚕を好み、布帛を作ることに巧みであった。)
・  高后(北宋宣仁皇太后高氏(1032年−1093年) ,小名を高滔滔といい,宋英宗の皇后,宋神宗の母親であり,毫州蒙城(今安徽省蒙城)の人,国の優しいお母さんと言うべき宋の仁のある皇帝の皇后といわれる。)
・  向皇后(1046年―1101年,祖籍河内(今河南沁陽)の人,后因?故全家?居于??(今江西九江),宰相向敏中曾?女,宋神宗??皇后。1085年,宋哲宗?位,尊?皇太后。1100年宋哲宗去世,一度?朝听政。)
・  孟后、(元祐皇后、1072年 - 1131年)は、北宋の哲宗の廃后。南宋で高宗により皇太后とされた。姓は孟氏。廃位後の法名は沖真。元祐太后、隆祐太后とも呼ばれるが、これらは諡号でなく生前の称号であり、元祐は哲宗期の元号である。)
・南宋の楊后((1162-1232),原名?桂枝,南宋寧宗皇帝皇后。嚴州青溪の人。)
・  謝后 (?道清(1210年-1283年),?海(今浙江?海)人,宋理宗?ホ的皇后,右丞相?深甫的?女,?深甫因?立楊太后(楊桂枝)有功,楊太后に選ばれて宮中に入る。)
・明朝の張后(明の天啓帝の皇后。崇禎帝から懿安皇后(いあんこうごう)の尊号を贈られた。)
・清朝の慈安(東太后)(清朝第9代皇帝咸豊帝の皇后。満州?黄旗人で、姓は鈕?禄氏。広西右江道員・三等承恩公であったムヤンガの娘。母は妾の姜氏。夫の死後、「母后皇太后」とされ、紫禁城の東部に位置する鍾粋宮に居住したため東太后と通称された。)
・   慈禧(西太后)(清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人のイェヘナラ氏の出身。孝欽顕皇后、または慈禧太后。老仏爺とも呼ばれる。 中国語では「慈禧太后」ないし「那拉皇太后」、「西太后」。)
の両太后などがいる。

 彼女たちはみなことごとく政治に介人し、甚だしい場合は政権を一人で牛耳り、古代史上、皇帝の冠を戴かない女性の統治者となった。しかしながら、彼女たちは大権を掌握したとはいえ、自分の傀儡(夫や子である皇帝)を押しのけて、皇帝に隷属する后妃の身分を変えてしまうようなことは決してしなかった。そうした中で、武則天は唯一の例外である。彼女だけが公然と簾の奥から躍り出し、堂々と真の女帝になったのである。

唐代人の筆になった、晩唐の李商隠の「宜都の内人(宮人)」は、次のように彼女を称讃している。「古には女神の女蝸がいたものの、これはれっきとした天子ではなく、伏磯が九州(仝国古を治めるのを于助けしただけだった。また後世、閑房をとびだして天下のことを裁決した女性も出たが、みな正統な地位を得たのではなく、愚かな主人を補佐するか、あるいは幼い皇帝となったわが子を抱いて権力を振ったにすぎない。ただ。天子さま(武則天)だけは、天の姓を革め、簪と腕環を取り去って帝冠を戴き、瑞祥も日ごとに現われ、大臣もそれをどうにもできないという真の天子になられたのである」(『全唐文』巻七八〇、)。
  一説によれば、この「真の天子」は、容姿端麗であったため、十四歳の時、唐の太宗の後宮に召されて「才人」という妃嬪の一身分を与えられ、「武媚」という号を賜った。しかし、太宗の死後、尼寺に追われて尼僧にされた。ところが、武媚は早くから皇太子の李治と恋仲であったため、彼が即位して高宗となった後、尼寺で再会するや二人は旧情にかられ、向い合って泣いてやまなかった。かくして、武則天は再び召されて後宮に入り妃娘となったのである。

 このもともと智謀にたけ、また文学、歴史の教養を兼ね備えた女性は、まず後宮において皇帝の寵愛を争うため様々な策謀をめぐらせ、恋敵を倒して皇后にのし上がった。その後、高宗が病にかかり、彼女が朝政を代行すると、なんと「事を処置してすべて天子の御意に叶い」、これ以後「政治には大小となく、みな天子とともに携わり」、次第に「天下の大権はことごとく皇后に帰し、官僚の任免、処罰や生殺与奪の権はすべて彼女の口から決せられるようになり」、天子はただ「手をこまねいて眺めるだけとなった」(『資治通鑑』巻二〇〇、高宗顕慶五年、同巻二〇一、高宗麟徳元年)。 高宗の死後、彼女はあいついで二人の息子を皇帝に立てたが、その後すぐに彼らを廃し、ついには歴史に前例のない第一歩を踏み出して、唐の命を革めて「周」とし、正式の開国の皇帝となった。彼女は中国政治史上の一つの奇跡をつくりだしたのである。

 この奇跡とそれを生みだした人物が唐代に出現したことは偶然であろうか。たぶんいくらかは偶然であろう。
もし高宗が父太宗の在位中に武則天と親しく知り合わなかったならば、もし後に高宗が武則天を尼寺に置き去りにして再び旧情を温めることがなかったならば、もし高宗が病気にならず、また武則天に政治を任せようと思わなかったならば、また、もし武則天がこのように才能のある女性でなく、あるいはもともと皇帝になろうなどという気持をもったりしなかったならば、等々の場合には、おそらく中国史上にこのような女帝が出現する可能性は全くなかったであろう。しかしながら、さらにもっと根本にまで原因を探ってみると、かえって私たちは偶然のように見える原因のなかに、いくらかの全くの偶然とはいえない要素がどうやら含まれていることを発見するのである。また次のようにも考えてみる。なぜ高宗は父皇帝の妃嬢と恋愛関係を持てたのであろうか。また、なぜ高宗はこともあろうに父皇帝の「未亡人」を再び後宮に入れ、あろうことか公然と「天下母道の模範」たる皇后に立てることができたのであろうか。なぜ武則天は女に生れたのにあのような政治的才能、教養、強烈にして剛毅な性格をもつことができたのであろうか。なぜ彼女は天下の大悪事を犯し、国号を変え皇帝を称したのであろうか。また、なぜ彼女は史上前例のない女帝の身分をもって朝廷に君臨し、群臣も競って彼女に従い、彼女は打倒されなかったのであろうか。およそこれらのことは、結局はあの唐代という時代の社会風潮と深い関係があるのである。武則天という、この女帝が唐代に出現するのには、深い時代的背景と厚い社会的基盤があったのであり、あるいはまた、唐代の女性全体が置かれた社会的地位や諸相と密接不可分の関係があったのである。
 以下、中国古代社会における唐代の女性の特殊な地位と、そのユニークな姿を観察してみよう。

 原始時代の母権制が、生産性と生存権とに問題が生じ、移住と戦いにより、その歴史的使命を果し、その寿命が尽きた時、「男尊女卑」は必然として誰も疑うことのない道徳的規範となった。エングルスは『家族私有財産及び国家の起源』において、この歴史的変化について「女性にとって世界史的意義を有する失敗」といった。この失敗はおよそ、逃れられない劫難」であり、これはまた人々にいささかの悲しみを感じさせずにはおかなかった。なぜならそれはずうっと数干年間も続いたのであるから。その時から、中国の人口の半分を占める女性たちは、未来永劫にわたって回復不可能な二等人となり、二度と再び他の半分である男性と平等になることはなかった。かくして、男を生めば「弄璋」(衡をっかむ)といい、女を生めば「弄璋」(璋をつかむ。古代、女子が生れると糸巻を与える習慣があった)といった。そこで、「婦は服するなり」、「婦人は人に伏すなり」ということになり、「女子と小人(奴僕)は養い難し」とか、「三従四徳」を守れとか、「餓死しても小事であり、貞節を失うことの方が大事だ……」といった価値観が生れ、時代が進むほど頑固になってゆくのである。中国の女性は、数千年間もこのような哀れな境遇の中でもがき苦しんだのである。ずっと後の今世紀初頭になって、民主革命(辛亥革命)のかすかな光が彼女たちの生活にさしこみ、こうした状況初めてわずかばかりの変化が生れたのであった。
* 女は幼い時は父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという三従を守り、婦徳、婦言、婦容、婦功の四つの徳を持たねばならない、という儒教の教え。


 唐代三百年間の女性たちは、この数千年来低い地位に甘んじてきた古代女性たちの仲間であった。彼女たちは先輩や後輩たちと同じように、農業を基本とする男耕女織の古代社会において、生産労働で主要な位置を占めず、経済上独立できなかった。一定の家庭以上の女子は、家の門から外出することもままならなかったのである。この点こそ、付属品・従属物という彼女たちの社会的地位はどの王朝の女性とも変わらない、という事態を決定づけたのである。しかしながら、唐代の女性たちは前代や後代の女性たちと全く同じだというわけでもなかった。先学はかつて次のように指摘したことがある。「三千年近い封建社会の女性に対する一貫した要求は、貞操、柔順、服従にほかならず、例外はきわめて少なかった。もし例外があるとすれば、それは唐代の女性たちにほかならない」(李思純「唐代婦女習尚考」『江村十論』、上海人民出版社、一九五七年)。筆者は、さらに一歩進めて次のように言うことができると思う。
唐代の女性は中国古代の女性たちの中でわりあい幸運な部類であったと。なぜなら、彼女たちは他の王朝、とりわけ明清時代という封建末期の女性たちに比べると、社会的地位はあれほどまでに卑賤ではなく、また蒙った封建道徳の束縛と圧迫もやや少なめであり、まだ比較的多くの自由があった。『古今図書集成』(清の康煕帝の命により編纂された類書)は、別の角度から一つの傍証を与えてくれる。この類書の「閨節」「閨烈」(共に道徳的模範となる婦人を収録した巻)の両巻に収録された烈女節婦は、唐代にはただ五十一人でしかなかったが、宋代には二六七人に増え、明代にはついに三万六千人近くに達した。これらの数字の差がこれほど大きいことから、唐代の女性と後代の女性が封建道徳から受ける被害の程度に大きな差があったことが十分みてとれる。これはまさに唐代の女性のユニークにして幸運な点であり、そしてこうした幸運はまさに唐代という時代が与えてくれたものであった。

 唐代とはどのような時代であったのか。どうして彼女たちに、このような幸運を与えることができたのだろうか。その理由は二つの方面から説明することができる。まずは、三百年間も続いた大唐帝国は、まさに輝ける封建時代の盛世にあたり、封建道徳も後世のように厳格で過酷な段階にまでは発展していなかったからである。封建支配者が人々の肉体と精神を禁縛する手段としての封建道徳は、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が目ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていった。
* 『礼記』の記載にある喜、怒、哀、馥、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、目、口、鼻の六つから発する欲。

 先秦時代(秦の始皇帝以前の時代)から唐代以前まで、どの時代にも常に女道徳を称揚する人がいたけれども、この時代の支配者たちは社会体制上、まだそれほど切迫した危機感がなく、自分たちの都合上、体面上、女性に対する束縛もそれほど厳重ではなく、彼女たちもまだ一定の地位と自由をもっていた。ただ宋代以降、儒教が厳格的に厳しくなるにつれ、また、社会的生産性に比して人口の増加が顕著になるにつれ、支配者たちは種々の困難に遭遇し、自分に対して日ごとに自信を喪失したので、道徳家たちはそこで始めて女性に対するしつけを厳格にするようになった。明、清という封建時代の末期になると、封建道徳はますます厳格になり、完備して厳密になり、残酷になり、ついには女性を十八界の地獄の世界に投げ込むことになった。唐時代はまさに封建社会の最盛期にあり、経済的、文化的に、それを受けて倫理的にも、唐朝は、非常に繁栄し強盛であったから、支配者たちは充分な自信と実力を持っており、人々の肉体と精神をさらに強く束縛する必要を感じなかったため、唐朝は各方面でかなり開明的、開放的な政策を実施したのである。このようにして、唐代の社会はその特有の開放的な気風によって古代の輝かしい存在となった。こうした社会の気風はおのずから女性たちの生活の中にも波及し、もともと比較的緩やかであった。封建道徳を強化発展させなかったばかりか、逆にいくらかの方面で弱めさえしたのである。

 もう一つの重要な原因は、秦の時代からの「三代後は漢人」といういわy唐代は漢民族が「胡化」(西・北方民族への同化)し、民族が融合した時代であったことである。この時代においては、少数民族の文化、習俗の影響はきわめて強烈であり、それらは社会生活の各領域に漆透し、中原の漢民族の道徳観念に大きな打撃を与えた。いわゆる「胡化」の風習には二つの来源があった。一つは唐朝の李姓の皇族自体が北方少数民族の血統であり、彼らはかつて長期にわたって北方少数民族と生活を共にし、また鮮卑民族が樹てた北魏から台頭し、その後、鮮卑族を主とする北朝政権を直接継承したがゆえに、文化、習俗において北朝の伝統を踏襲し、「胡化」の程度がきわめて深かったのである。唐は天下を統一すると、さっそくこれら北方少数民族の習俗を中原にもたらした。まさに朱子が論じたように「唐の源は夷狄であったから、家庭の礼儀作法に欠けるところがあったのも不思議ではない」のである(『朱子語類』巻言一六、歴代三)。   

 さて、来源の第二は、唐代には各民族の間の交際と国際交流が空前の繁栄をみ、雄渾な精神をもっていた唐朝が「蛮夷の邦」の文物や風習に対しても来る者は拒まず差別なく受け入れ、さらに「胡化」の風習が日ごとに盛んになるのを助長したことである。当時、唐の周辺にあった少数民族の国々には、鮮卑はもちろん、その他に突厥、契丹、吐谷渾、党項などがおり、彼らの婚姻関係はどこもかなり原始的であった。それゆえ女性の地位はわりに高く、極端な場合には女尊男卑でさえあって、女性の受ける拘束も少なく、比較的自由奔放であった。たとえば、盛唐時代の少数民族出身の将軍安禄山は自らについて、「胡人は母を先にし、父を後にする」(『資治通鑑』巻215、玄宗天寶六載)といったことがある。「その俗は、婦人を重んじ男子を軽んずる」少数民族もあった(『旧唐書』南蛮西南蛮伝・東女国)。女性が権力を掌握する制度や習俗をまだ保持している民族や国家もたくさんあって、日本、新羅、林邑、東女(唐代、中国南方の少数民族)等の国には女王、女官がいたし、また回?、突厥等の民族でもよく女君主が攻治を行うことがあった。その他に、北方少数民族の大半は遊牧民族であり、女性たちは農耕や織物をする中原地区の女性とは異なり、馬に乗って放牧したり、狩猟をしたりして、大砂漠や大荒原を縦横に駆けまわったので、しぜんに一種の剛悍、勇武、雄健の風を身につけた。少数民族の気風の影響を受けて、北方の女性は、古来地位がわりに高く開放的であった。北朝の顔之推は、「?(北朝の都、現在の河北省臨?県)下の風俗では、もっぱら家は女で維持されている。披女らは訴訟をおこして是非を争ったり、頼みごとに行ったり、人を接待したりするので、彼女らの乗る車で街路はふさがれ、彼女らの着飾った姿は役所に溢れている。息子に代って官職を求め、夫のために無罪を訴えているのである。これは恒、代(鮮卑族の建てた北魏王朝が最初に都を置いた現在の大同一帯の古地名)の遺風であろうか」(『顔氏家訓』治家)と述べている。これら異民族の習俗と北朝の遺風は、李氏による唐王朝の娃国とその開放的な攻策によって、絶えることなく中原の地に滔々として流れ込み、さらに唐王朝の広大な領域に波及し、もとからあった封建的な道徳と束縛に強烈な打撃を与えた。

 以上のような種々の原因によって、唐朝はこの王朝特有の「家庭の風紀の乱れ」、「封建道徳の不振」という状況を生みだした。こうした状況は後世の道学者たちの忌み嫌うところとなったが、しかし逆にこの時代に生きた女性たちにはきわめて大きな幸運をもたらし、彼女たちが受ける抑圧、束縛をいささか少なくしたので、彼女たちは心身共に比較的健康であった。こうして、明朗、奔放、勇敢、活発といった精神的特長、および独特の行勤や風格、思想や精神などが形成されたのである。
 歴史絵巻は私たちに唐代の女性の生き生きとした姿を示してくれる。
 彼女たちはいつも外出して活動し、人前に顔をさらしたまま郊外、市街、娯楽場に遊びに行き、芝居やポロを見物した。毎年春には、男たちと一緒に風光明媚な景勝地に遊びに行き、思うぞんぶん楽しむことさえできた。「錦を簇め花を?めて 勝遊を闘わせ、万人行く処 最も風流」(施肩吾「少婦遊春詞」)、「三月三日 天気新なり、長安の水辺 麓人多し」(杜甫「麗人行」)などの詩句は、みな上流階級の男女が春に遊ぶ"行楽"のさまを詠んだものである。

 彼女たちは公然とあるいは単独で男たちと知り合い交際し、甚だしくは同席して談笑したり、一緒に酒を飲んだり、あるいは手紙のやりとりや詩詞の贈答をしたりして、貞節を疑われることも意に介さなかった。白居易の「琵琶行」という詩に出てくる、夫の帰りを待つ商人の妻は夜半に見知らぬ男たちと同船し、話をしたり琵琶を演奏しあったりしている。それで、宋代の文人洪邁は、慨嘆して「瓜田李下の疑い、唐人は謗らず」(『容斎三筆』巻六)といった。
* 「瓜田に履を入れず、李下(すももの木の下)に冠を正さず」の格言に基づく、疑われやすい状況のたとえ。 

彼女たちは「胡服騎射」を好む気風があり、胡服戎装(北方民族の軍装)をしたり、男装したりすることを楽しみ、雄々しく馬を走らせ鞭を振い、「暫を露わにして〔馬を〕馳聘せた」(『新唐書』車服志)またポロや狩猟などの活勤に加わることもできた。杜甫の詩に「輦前(天子の車の前)の才人(女言弓箭を帯び、白馬は哨誓く黄金の勒。身を翻し天に向かい仰ぎて雲を射る、一箭正に墜つ双飛翼(夫婦鳥)」(「哀江頭」)と描写されている。馬上で矢を射る女たちの何と雄々しき姿であることか。 彼女たちは勇敢かつ大胆で、よく愛しよく恨み、また、よく怒りよく罵り、古来女性に押しつけられてきた柔順、謙恭、忍耐などの「美徳」とはほとんど無縁のようだった。誰にも馴れない荒馬を前にして、武則天は公衆に言った。「私はこの馬を制することができる。それには三つの物が必要だ。一つめは鉄鞭、二つめは鉄樋(鉄杖、武器の一種)、三つめは短剣である。鉄鞭で撃っても服さなければ馬首を鉄樋でたたき、それでもなお服さなければ剣でその喉を断つ」(『資治通鑑』巻二〇六、則天后久視元年)と。この話は唐代の女性たちに特有の勇敢で、剛毅な性格をじつに生々と表わしている。

 彼女たちは積極的に恋愛をし、貞節の観念は稀薄であった。未婚の娘が秘かに男と情を通じ、また既婚の婦人が別に愛人をつくることも少なくなかった。女帝(武則天)が一群の男寵(男妾)をもっていたのみならず、公主(皇女)、貴婦人から、はては皇后、妃娘にさえよく愛人がいた。離婚、再婚もきわめて普通であり、唐朝公主の再婚や三度目の結婚もあたりまえで珍しいことではなかった。

こうした風習に、後世の道学先生たちはしきりに首をふり嫌悪の情を示した。『西廂記』『人面桃花』『箭女離魂』『蘭橋遇仙』『柳毅伝書』等の、儒教道徳に反した恋愛物語が、どれも唐朝に誕生したことは、このJもよい証拠である。
 彼女たちの家廠における地位は比較的高く、「婦は強く夫は弱く、内(女)は剛く外(男)は柔かい」(張鷺『朝野命載』巻四)といった現象はどこにでも見られた。唐朝の前期には上は天子から下は公卿・士大夫に至るまで、「恐妻」がなんと時代風潮にさえなったのである。ある道化の楽人は唐の中宗の面前で、「かかあ天下も大いに結構」(孟柴『本事詩』嘲戯)と歌ったことで、韋皇后から褒美をもらったという。御史大夫の裴談は恐妻家としてたいへん有名であったばかりか、妻は恐るべしという理論までもっていた。妻たちが家で勝手気ままに振舞っているのを見聞したある人は、大いに慨嘆して次のようにいった。「家をもてば妻がこれをほしいままにし、国をもてば妻がそれを占拠し、天下をもてば妻がそれを指図する」(于義方『黒心符』)と。

 この時代には、まだ「女子は才無きが便ち是れ徳なり」(清の石成金の『家訓齢』が引く明の陳眉公の語)という観念は形成されていなかった。宮廷の妃娘、貴婦人、令嬢から貧しい家の娘、尼僧や女道士。娼妓や女俳優、はては婢女にいたるまで文字を識る者がきわめて多く、女性たちが書を読み文を作り、詩を吟じ賦を作る風潮がたいへん盛んであった。これによって唐代には数多くの才能ある女性詩人が生れたのである。女道士の魚玄機はかつて嘆息して、「自ら恨む 羅衣の 詩句を掩うを、頭を挙げて空しく羨む 榜中の名(女に生れて詩文の才を発揮できないのが恨めしい。むなしく科挙合格者の名簿を眺める)」(「崇真観の南楼に遊び、新及第の題名の処を睹る」)と詠んだ。この詩句は、女性が才能の点で男性に譲らぬ自信をもってはいるが、男とともに金榜(科挙合格者発表の掲示板)に名を載せ、才能を発揮できない無念さをよく表している。

 以上の説明でも、まだ鮮明なイメージをもてないならば、永泰公主(中宗の七女、武則天の孫娘)等の墓葬壁画、張萱の描いた「?国夫人游春図」などの絵画、さらには大量に出土した唐代の女俑(墓に副葬された女型の人形)が参考になる。そこには、唐代の女性の、あの「胡服騎射」の雄々しい姿、胸もあらわな妖艶な姿を実際に目で見ることができ、開放的な時代の息吹きを強く感じることができると思う。まさに「三寸金蓮」(纏足で小さくされた足)に折り曲げられなかった自然の足のように、彼女たちはまだ完全には封建道徳によって束縛、抑圧されて奇形になってはおらず、なお多くの自然らしさと人間らしさを保っていた。ここに彼女たちの幸運があった。

 まさに唐代の世相と女性たちが、武則天のために皇帝を称する雰囲気をつくり、足場を用意し、チャンスを提供してやり、彼女に太宗の妃妾から高宗の皇后になり、さらに政治に参与し、皇帝になる機会をかち取らせたのである。また、朝政を握った後、彼女がさらに一歩進んで国号を改め皇帝を称する可能性を開き、しかも社会や朝臣にそれを受け入れさせたのである。さらにまた、彼女が古今の歴史に通じ、政治の機微を知り臨機応変に対応することができる政治的トレーニングと剛毅、果断な政治家的素質を身につけて、高宗を威圧し、群臣を思いどおりに動かし、反乱を鎮圧し、それによって女帝の玉座を安泰なものにするようにしたのである。

 唐代の女性たちが武則天という天の嬌女(奔放で尊大な女性)を世に押し出し、そして武則天が女帝になったことは、男尊女卑の伝統観念を揺り動かし、当時の女性の地位と社会の気風に影響を与えずにはおかなかった。彼女は皇帝を称するという、この驚天動地の行為によって男尊女卑に挑戦しただけではなかった。彼女は権力掌握の後にも、また意識的に様々な手段で女性の地位を高めたのである。たとえば内外の命婦(天子から称号を賜った貴夫人)を率いて、古来ただ男性だけで挙行していた祭礼に女性も参加させた。また、皇后の身分で命婦と百官を一緒に招き、宣政殿での盛大な宴会に参加させた。武氏の親族の夫人たちを召見し、あわせて宴席に招待した。また故郷の婦人で八十歳以上の者を郡君(四品官の官僚の妻に授与された封号)に封じた。さらにまた、子は父の喪には三年服し、父が在世の時には母の喪にただ一年服せばよいという古来の礼の規定に異議を提出し、まず父が在世でも子は母の喪に三年服すという礼制を公布施行した。それにまた、古今の才女を大いに顕彰したりもした。これらの措置によって男尊女卑という社会全体の基本状況が変革されたわけではなかったが、しかし確実に当時の気風に影響を与え、女性の地位を高めたのである。

 唐の李商隠のはなはだ興味深い文章「宜都の内人」に、次のような話がある。武則天には男の愛人が多すぎたので、ある内人は婉曲に諌めようと思い、彼女に次のような道理を説いた。「古来からずうっと女は男より卑しいものでした。ただ貴女様だけが真の天子になることができたのです。ただ女は陰、男は陽でございますから、陽が尊であれば必ず陰は卑となります。陽が消えて陰ははじめて志を得ることができるのです。男妾が多すぎれば、勢い必ず陽が勝ち陰が衰えて、天下は長く続くことができません。ですから男妾を退けて独り天下に立つべきでございます。こうして一億年もたてば、男は益々勢いを削がれ女は益々勢いを専らにして行きます。私の願いはここにあるのでございます」(『全唐文』巻七八〇)と。この宜都の内人は、武則天が皇帝を称したことから、なんといつの日にか陰と陽を顛倒し、乾と坤を逆転し、男が勢いを削がれ女が勢いを専らにする世界をつくろうと思ったのである。このような考えはじつに大胆というべきではないか。上記の話は真実か否かは断定できないが、もし事実だったとしたら、そうした考えは唐代の女性だからこそ考え得ることである。そして少なくとも唐代の、武則天が皇帝を称した時代に、人々が有史以来宇宙の法則であると考えてきた男尊女卑に懐疑と異議を提出したことを示している。たとえこの話が根も葉もないことだとしても、唐朝の士大夫である李商隠がこのような文章を虚構として書いたということ、これは武則天の皇帝即位が人々の心の中にある伝統的な男尊女卑の観念を確実に揺り動かしたことを表している。ずっと数百年も後の明代になってもまだ、武則天に対して「女の分際で男を統治し」、高位高官たちが「男なのに女に事えた」と、大いに憤慨した人がいる(袁黄等『綱肇合編』巻二二「唐朝総論」上)。武則天が皇帝に即位したということが、伝統的観念に与えた衝撃がいかに強烈なものであったか、影響がいかに深刻なものであったかが分かる。

 当然次のように言うべきであろう。唐代の社会の気風と女性の地位は女帝をつくり出したが、女帝の方もまた時代の気風を推し進め助長したと。上に列挙した唐代の女性たちの開放的で躍動的な姿と生活について、武則天の功績によって生まれたものであるという事が全くなかったなどと誰がいうことができようか。





気風

唐代の気風は、安史の乱を境として、初唐と盛唐の前期、中唐と晩唐の後期に大きく分かれる。全体的に律令制度は確立していったが、貴族制の特徴は濃厚であり、制度としては緩やかで柔軟なものであり、それが気風にも影響していた。
前期における唐は、中国の中世において、最も盛んな時代である。唐政府は、唐王朝の皇帝である李氏が北方民族であった鮮卑の系統でいることもあって、北方民族の文化影響が強い北朝を継承しており、人々は道徳を厳しく遵守せず、唐の太宗は周辺民族を含めて「天下は一家」として、全体的に開明的で開放的な政策を行った。
また、周辺国家や民族の交流が非常に盛んであり、異民族の文化や風習、宗教を受け入れ、習慣として盛んになった。そのため、全体として漢族が異民族の影響を受け、融合した時代となった。唐政府の政策は、異民族にも相当に平等なもので、異民族でも高官になることができ、自己の民族文化を保ったまま生活することもできた。周辺諸国も漢字を共有のものとする東アジアに文化圏が生まれるほど、多大な影響を受けた。都市の一般住民も異国からの文物が浸透していった。
また、律令体制も完成し、全国で通用するようになった。そのため、中国の時代のなかで比較的公平な社会であった。科挙制度を継続したため、いまだ貴族制の影響は強かったが、社会階層の流動化は進展していた。科挙では詩作が重視されたので、多数の文人が生まれた。また、音楽や書道、各種の遊戯も盛んであった。
この時代は儒教道徳は弱わり、自由に振る舞うことや勇気があることも重視された。文人にも辺境に赴き、軍事に関わることを求めることも多く、多くの「辺塞詩」が生まれた。官僚や女性を含め、人々は、様々な異民族から影響を受けた格好をすることができた。
経済については、資源の開発が進み、唐政府が周辺国を制圧したため、通商圏が拡大し、周辺から物資が流入するようになり、全体的に好景気であった。陸上だけでなく、海外貿易も増加し、中国南方も発展した。
後期については、安史の乱により、皇帝権力を支える基盤は衰え、地方に藩鎮勢力が割拠し、世界帝国的な性格は後退した。しかし、商業の発展を背景に、武力国家から、両税法の施行により財政国家に生まれ変わり、唐政府は困難を財政の力を背景に乗り切った。また、文学は発展し、印刷技術は向上していった。他面、物価が高騰したため、自作農が崩壊し、流民があふれ、「客戸」として各地の荘園や新興地主の小作となっていき、社会不安の要素となった。
貴族制は衰退し、新興地主層の興隆とともに、官が規制できない民の力が増大してきた。武宗の「廃仏令」など唐国内における排外主義は強まり、周辺国も独立の傾向が強くなった。社会も余裕がなくなり、個人が自由に振る舞うことも少なくなった。









生活実態
唐代も他時代と同様、階層により、生活実態に多くの差があった。
五品より上の官僚である勅任官の特権が大きく、彼らの生活は豊かなもので、長安の里坊の4分の1を占める邸宅も存在した。また、彼らの母や正妻は外命婦制度により、封号を与えられた。彼らの生活は豊かなもので、妻女も家事を行う必要がなく、歌舞音曲や化粧、豪華な飾り物を買う余裕があった。彼らのほとんどが多くの妻妾を持った。また、貴族出身である場合、ほとんどが、先祖伝来の荘園を所有していた。
九品から六品までの認証官は、周りを塀に囲まれた四合院の邸宅に住んでいることが多かった。彼らの生活は余裕はなく、貧困におちいるものもいて、多くは昇進を望んでいた。彼らの妻女は、機織りなどを行い、家事をすることもあった。
九品に入らない流外官と呼ばれる官吏は、胥吏とも呼ばれる存在であった。土着の人が選ばれ、地方政治の実情を把握し、現地のものとの関係も深かった。地方に赴任する官僚より、実務は胥吏が握っていることも多かった。彼らの多くは豪族や新興地主の血縁者であり、公課などの免除がないにも関わらず、負担を拒否することもあった。豪族である場合、住居は庭が広い四合院であることが多かった。彼らの妻女は家事の負担も軽かった。
農民については、敦煌文書や唐詩などで確認できる。敦煌では、社という地縁を中心とした共同体を組み、各自社人として、仏事と葬儀の援助、宴会などの相互補助を行った。社は、社長・社官・録事を長とし、事業の度に労力や酒・粟・油などを提供するため、負担が重かった。遅れた場合や退会した場合は、杖で打ったり、宴席を設けるなどの罰則が行われた。そのため、貧困なものは社人になることはできず、罰則にも関わらず退会を願い出るものもいた。社には、官吏が入ってくる場合もあった。敦煌での生活は厳しく、徴兵や多くの負担が存在し、逃戸や子供の人身売買などが行われていた。貧民が税の催促に、里正や村頭から暴力を受けた記録もある。
全国的にいえば、農民の家では男性は耕作を行い、女性は織り物を行うのが一般的であった。妻女たちは家事と養蚕、紡績の仕事に明け暮れた。租税を納めた上で、貧困層は落ち穂を拾って飢えをしのいだ。休耕の時も男女ともに日雇いに出て、老人になるまで働いた。南方の農民は比較的、負担が軽かった。農民は兵役もあり、女性が耕作を行うこともあった。
職人については、世襲であり、転業も許されなかった。手工業にも行は多数存在し、行頭は行の人に政府の用役を供し、役所との間をつないだ。一般の手工業者と、農業兼業の手工業者は国家服役をなさればならず、小商人より地位が低かった。紡績と専業とする女性には生涯、嫁にいくことができないものもいた。
商人については、富裕なものを王侯貴族を超えて、住居も豪邸であることが多かった。商人は交易のために移動し、数年は家を空け、事故にあい消息を絶つものが相当数いた。また、交易先に移住するものもいた。商業は店舗を構えたところで、女性が主人となり、行うこともあった。貧しい商人は行商人が多く、移動の危険が大きかった。
家族の規模は5〜7人程度が平均的で、庶民階層は子供を複数養う余裕がある家が少なかった。また、三世代同居は、庶民階級に多かった。
庶民の家でも、私賤人である僕や奴・婢を使うことは一般的であった。私賤人たちは主に生産労働に従事し、女性の私賤人には家事労働を行うものもいた。私賤人たちの結婚は主人によって決められた。




食事と料理
平和が続き、生活が安定すると物資は豊富なものとなり、外国各地から食材がもたらされ、外国の料理も通常にふるまわれる料理の一種となっていた。
この時代、シルクロードを通って、もたらされたものに香辛料があげられる。胡椒、ヒハツ、ニンニクなどが料理に使われた。西域から伝えられたキュウリやほうれん草も一般に普及した。
中国北部では粟や豆、麦がつくられ、盛唐に小麦粉食が流行したため、麦の生産量が増大した。南部では米がつくられ、大運河を使って北方に運ばれたため、米食が北部で増加し、米を使った料理も増えた。
西域から渡ってきた小麦粉で作る麺類と、小麦粉を練り、焼いてつくられたパン類の餅がすでに主食の一部となっていた。他に饅頭、ワンタン、餃子が流行した。現存する餃子の最古のものは唐の高昌王墓から出土した唐代の化石である。[13]また、西域から新たに、ヒツラ(ピラフ)が伝わった。
肉食は、牛、羊、豚、鶏、ラクダなどの家畜や、狩った鹿や猪、兎、熊などが食された。遊牧民族の肉料理の方法も伝わっていた。
また、海洋技術の発達により、蟹、イカ、ナマコや海藻が採られるようになった。
果物は、ブドウ、ザクロ、ミカン、ウリ、ナシ、スモモ、モモが食べられた。特に南方で捕られたライチは貴重で、楊貴妃に好まれたことで知られた。サツマイモ、ナツメは当時は甘み類の1つであった。
富裕層はすでに多用な食事を食べることが可能になり、珍奇な食材を好むグルメ嗜好も生まれてきた。庶民は穀物やウマゴヤシなどの菜食が中心だった。医食同源という考え方も生まれ、食餌療法も広まっていた。