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唐代の女性(T)音楽と歌妓


唐代の女性 (T)  目録

1.唐の音楽と歌舞


2.唐の歌妓(妓優)



02----------


3.唐時代の気風


4.生活実態


5.食事と料理

03----------


6.女性の服装と化粧


7.女性と結婚

04----------


8.女性に関する年中行事・趣味趣向


  /年中行事/運動・競技/屋外遊戯/酒と酒宴/屋内娯楽/喫茶と茶道/散楽と劇/牡丹の流行/異国趣味/無頼と刺青/遊侠と奢豪/虎と狐への信仰



9.女性の家庭内の娯楽と節句の行事には次のようなものがあった。


人日の剪彩/蕩鞦韆(ぶらんこ蕩ぎ)/闘百草(百草を闘わす遊び)/弓子団子/七夕の乞巧(針仕事の占い)/拜新月/蔵鈎(鈎隠し)/動物の飼育



10.唐代で最も特色のあるのは、女性たちの外出である。


元宵節観燈(燈龍の見物)/春薪踏青(ハイキング)/芝居見物/ポロ見物


首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。

第15代武宗は道教を信奉し、仏教を始めとする外来宗教を取り締まった(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただ、この措置に宗教的な色は薄く、出家により脱税を謀る私度僧を還俗させ財政の改善を目的とした。これ以降の仏教は往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教は禅宗や再興した天台宗が中心となるが、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなった。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表れている。

また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯・舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。

唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。古文辞学派を率いた明の文人李攀竜は「文は秦漢、詩は盛唐」といい、唐詩、特に盛唐の詩を中国史上最高の漢詩だとしている。古文辞学派に反対する文人も、唐詩が最高峰だという見解には余り異を唱えてはいない(例えば陽明学の李卓吾は杜甫を非常に重んじている)。日本でも、平安時代から白居易などの唐詩が親しまれており、江戸時代になると、李の主張を敷衍した荻生徂徠らが『唐詩選』などを通じて多く紹介したため、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。





1.音楽と歌舞
古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。
初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。

宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。
舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。

舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。
唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。

唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。
安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった。







2.唐の歌妓


この時代の歌妓は、色と芸を売って生業とする娼妓と女芸人とである。「妓」、この後世もっぱら肉休を売る女性を指すようになった呼称は、もとは「伎(技)」の意味から来たもので、歌舞等の技芸を専門に学ぶ女芸人を指していた。唐代の「妓」はすでに専業娼妓の呼称になっていたが、しかし同時に「妓」は歌舞音曲に携わったり、縄・竿・球・馬などを操る女芸人を総称する言葉であって、決して肉体を売る女性だけを指すものではなかった。それで常に「聴妓」(音楽を聴く)とか、「観妓」(歌舞を観る)という言い方があったのである。「妓」は娼妓と女芸人を合せた呼称ということができる。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあったが、体を売る娼妓とは違ってプライドを持っていたが、唐時代を過ぎ時代とともに、娼婦化していった。。

 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したの
で、彼の治世には宮妓の人数は大幅
に増大し、教坊は隆盛を極めた。また
玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設
け、特に才能のある芸妓を選りすぐ
り、宮中に入れて養成した。当時、宜
春院に選抜された妓女は、「内人」と
か、「前頭人」とよばれた。玄宗は常
日頃は興慶宮の勤政楼の前で演芸
会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百
人も出演することがあり、また縄や竹
竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯
もあった。この後は、もうこれほどの盛
況はなかったが、しかし教坊は依然と
して不断に宮妓を選抜して教坊に入
れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝
の勅命だと称して「良家士人の娘及
び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓
人を選び」内廷に入れると宜言したの
で(『H唐書』李絲伝)、人々は大いに
恐れおののいた。そこで憲宗は、これ
は噂であると取り消さざるを得なかっ
た。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳
羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行わ
れた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を
皇帝に献上したことがあった。


 これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婢」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。その記載によると、選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲詔院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚(五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバッチ)が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二目、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。


妓優の生活と倫理感
 彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の芭漢女大娘子、許渾の「蕭煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の蕭煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張結の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えて宮閲を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。席融の「退宮妓」という詩に、「一且色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなぺてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して白由の身であったといえよう。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賤民身分とは区別していたこと、少なくとも玄宗の時代には、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

 もちろんのこと、たとえ宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたにせよ、そしてまた一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたにせよ、所詮彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になるものも少なくなかった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓囲」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に乎を入れて暖をとった(『開元天宝遺事』巻古。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎないということであった。

 長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、宦官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上乎だったという。彼女たちは宮妓と同じように民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」元槇「連昌宮詞」注)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新農の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録に補遺』、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裴大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名乎公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。というのは、記録によると彼女たちは一般に長く宮中に留まることはなく、行勤は比較的自由だったからである元槇の「連昌宮詞」に、「(高)力士 伝呼して念奴を見れど、念奴は潜に諸郎【とのがた】を伴って宿す」という句がある。また謝阿蛮も常日頃宮中に出入りしたり、楊国忠(楊貴妃の一族)の邸宅に遊びに行ったりしていた。こうしたことから、彼女たちの行勤や私生活について、宮廷はほとんど束縛しなかったことがわかる。また、彼女たちの中の少なからざる者が、夫、子供、家庭を持ち、家族仝員で教坊の中に住んでいた。宮中に在る内教坊の宮妓は宮中から自由に出人りしたり、男女が混って一緒に住むことは、ほとんど不可能であったから、彼女たちはいずれも外教坊に属す人々であったと思われる。

 外教坊の芸妓の大半は、家族全員が宮廷に仕える芸人集団であった。たとえば裴大娘自身は歌舞妓であり、その兄は筋斗伎であり、夫は竿木伎であった。芸妓たちの生活は、たいてい皇室からの給養で成り立っており、いつでも御召にそなえ、宮中に出仕したが、それ以外に宮廷外の招きに応じることもできたようである。たとえば『教坊記』に次のような話が載っている。蘇五奴の妻で歌舞妓であった張四娘は、「踏謡娘」を上手に演ずることができたので、いつも人々から招かれた、と。おそらく一定の報酬を得ていたことだろう。

香火兄弟
 教坊妓は彼女たち独特の一風変った生活の仕方と考えを持っていた。彼女たちは仲間同士で意気投合すると、「香火兄弟」(神仏の前で香火をたき義姉妹の契りを結んだ仲)となった。多いものは十四、五入少ないものでもハ、九人がそれぞれ集団をつくった。もし、その中のひとりが嫁に行くと、香火兄弟たちは彼女の夫を女仲間にみたてて、「嫂嫂」とか「新婦」などとよんだ。また同時にその夫に睦み親しむことができたが、妻となった妓は決して嫉妬することはなかった。彼女たちはそれを突叛の習俗にならったものであるといっていた。

五奴
 また、香火兄弟でない人々の間でも、男女関係は比較的自由であった。裴大娘は伎人の趙解愁と私通し夫が邪魔になった。彼女は土袋で夫を圧死させようとして失敗したので、坊中の妓女たちはいつも「あなた、今後土袋を縫う時はきちんとすき間がないように縫いなさいよ。決してほころびたりしないようにね」などと冗談をいって笑いあった。また別の歌舞妓の張四娘は招かれて外出する時、いつも夫の蘇五奴がついて行った。招いた人は夫がいつも彼女の側にいるのが邪魔で、酒を飲ませて酔いつぶそうとした。蘇五奴は言った。「銭をたんまりはずんでくださりさえすれば、鎚子(蒸しまんじ。う)を食べても酔いますよ。酒など飲まなくてもね」と。それで後世、妻を他人に抱かせる男を「五奴」とよんだ。教坊妓たちのように「義兄弟」の契りを結んだり、自ら男のように装う生活方式は、他の階層の女性には無い点であり、男女に関する彼女たちの道徳観念や流儀は他の階層の女性たちと全くちがっていた。こうしてみると、俳優、芸人など芸を売って暮らしている女性は、一般の貴族、平民の女性に比べてより独立性があり、男に従属することも少なく、男女の地位も自然で比較的平等であったこと、また彼女たちは娼妓と同じではなかったが、男女関係に対する観念は同じように大いに自由奔放であったことが分かる。


教坊の曲 舞踊


唐の有名な妓優

紅桃
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。

謝阿蛮
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。

張雲容
全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

王大娘
『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

許和子(永新)
『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

念奴
『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元?の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。